おはこんばんにちは!うたまるGTです(´-`*)
タイトルの通り武芸侍を作成しました☆
キャラ名は《ぷ芸 うたまる》です。
ぷ芸ですが、よろしくお願いします<(_ _)>
早速武芸を連れて週間依頼の【秀吉戦記】で《山崎の戦い》に行ってきました。
【山崎の戦い-やまざきのたたかい-】
山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)において、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した戦い。
古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。 (wikipediaより引用) |
城ともさんの施設をお借りして忍者以外は作り直した家臣達です。
こんなに違うのかってくらい能力アップしました☆
城下町の大切さが分かりました(´-`*)
城ともさんあざまっす!
雑魚狩りした後に天狗倒して、『津田重久』へ。
◇津田 重久-つだ しげひさ-
津田 重久(つだ しげひさ、天文18年(1549年) – 寛永11年(1634年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。山城国にて津田高重の子として誕生。
はじめ室町幕府第15代将軍・足利義昭に仕え、その後、織田氏家臣・明智光秀に仕え、天正10年(1582年)の本能寺の変では、織田信長の籠る本能寺を攻める明智軍の先鋒を務めた。しかし、山崎の戦いで羽柴秀吉によって光秀が敗北後は高野山へ逃れたが、翌天正11年(1583年)に赦されて秀吉に仕え、豊臣秀次の付属とされた。文禄3年(1594年)8月、秀次の奏請で今枝重直ら他の家臣と共に豊臣姓を賜り、重久は従五位下遠江守に叙された。 秀次自害の後、慶長元年(1596年)に子の平蔵とともに前田利長に召し出され、4,000俵で家臣となった。同時期に前述の今枝重直も前田家臣になっている。 慶長5年(1600年)、前田氏の北陸方面の戦いに参加し、関ヶ原の戦いの前哨戦たる西軍の山口宗永の加賀大聖寺城を攻めた。この大聖寺城の戦いで武功を挙げ、戦後は大聖寺城代を務めた。慶長10年(1605年)に致仕し、次男の重次が家督を継いだ。 寛永11年(1634年)、死去。 (wikipediaより引用) |
叩いたら近くにいた方を巻き込んでしまい盾鍛冶不在の構成になってしまった。
柔らか仕上げの軍楽が死んでしまいそのまま撃破(´Д⊂ヽ
なので2戦しました。
再度、巻き込んだ方すみませんでした( ;∀;)