【九州三国志】島津家:沖田畷の合戦に出陣☆

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おはこんばんにちは!うたまるGTです(´-`*)

昨日は、【九州三国志】《沖田畷の合戦》に行ってきました。

徒党構成は、昨日と同じ。

◆武士うたまる《武士道》

◆暗殺うたまる《暗殺忍者》

◆珍砲うたまる《鉄砲鍛冶》

◇坊主丸儲け ( 密教 )家臣

◇かぶきんぐ ( 能楽 )家臣

◇無珍げーる ( 医術 )家臣

◇もっとぶって(鎧鍛冶)家臣

沖田畷の合戦-おきたなわてのかっせん-】

沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、日本の戦国時代の天正12年3月24日(1584年5月4日)に肥前島原半島(長崎県)で勃発した戦い。九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の合戦である。「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。
(wikipediaより引用)

島津 家久(しまづ いえひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。島津貴久の四男。母は本田丹波守親康の女。島津義久・義弘・歳久らは異母兄。
(wikipediaより引用)
(あずさ)は、実在の男性武将をモデルとした架空のキャラクターとなっている。
梓のモデルと考えられるのは、島津義久・義弘の弟で家久の兄、島津歳久(1537-1592)。
日置家の祖で、お供の島津忠隣は歳久の婿養子、祁答院は歳久の晩年の封地であり、共に歳久ゆかりの人物である。(寄合所より引用)

沖田畷ではアサシンクリード的な格好の島津家久が先導してくれます。

家久は義弘と違って変なとこで立ち止まることなく、『野戦・壱』~『野戦・伍』をサクッと攻略。

◇江里口 信常-えりぐち のぶつね-

江里口 信常(えりぐち のぶつね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。龍造寺氏の家臣。龍造寺四天王の一人。
天正12年(1584年)、島津氏との戦い(沖田畷の戦い)で龍造寺隆信が戦死すると単身、味方と偽って敵陣に乗り込み、敵の総大将・島津家久の首を狙ったが、家久の左足を傷つけるに終わって総大将の首を討つには至らず、その場でなぶり殺しにされた。家久から「無双の剛の者」と賞賛され、一族がいれば召抱えたいと言わしめた。(wikipediaより引用)

円城寺 信胤-えんじょうじ のぶたね-

円城寺 信胤(えんじょうじ のぶたね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。龍造寺氏の家臣。
武勇に優れた勇将であり、主君・龍造寺隆信に従って各地を転戦し、武功を挙げた。龍造寺四天王の一人に挙げられることもある。(wikipediaより引用)

成松 信勝-なりまつ のぶかつ

成松 信勝(なりまつ のぶかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。龍造寺氏の家臣。龍造寺四天王の一人。
武勇に優れていたため、龍造寺四天王の一人となった。元亀元年(1570年)の今山の戦いでは、大友軍に夜襲をかけ、敵の総大将・大友親貞の首級を挙げ、龍造寺隆信より感状を受けた。(wikipediaより引用)

百武 賢兼-ひゃくたけ ともかね-

百武 賢兼(ひゃくたけ ともかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて武将。龍造寺氏の家臣。龍造寺四天王の一人。家紋は鏡之内桔梗。
戸田兼定の長男として誕生。龍造寺軍の中核として各地を転戦し武功を挙げ、主君・龍造寺隆信から百人並みの武勇を有すると賞され、百武姓を賜った。賢兼はその武勇から龍造寺四天王の一人に数えられるほか、龍造寺氏配下の武勇優れた4人を総称する「両弾二島(両弾二志摩)」(大村弾正・犬塚弾正・百武志摩守・上瀧志摩守)の一人にも挙げられている。
(wikipediaより引用)

◇昌-あきら-

(あきら)は、実在の男性武将をモデルとした架空のキャラクターとなっている。
晶のモデルと考えられるのは、龍造寺四天王の一人として名を挙げられることもある木下昌直である。
木下昌直(?-1584、または1610)。京出身で木下伊予守入道覚順の養子。沖田畷の戦いで戦死したとも、鍋島直茂と共に撤退したとも伝えられる。(寄合所より引用)

これぐらいのダンジョンがちょうど良いね(*´з`)

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